2020年へのマイルストーン
ISA世界サーフィン選手権が伊良湖にやってくる!
ISA(国際サーフィン連盟)が主催する世界サーフィン選手権“ワールド・サーフィン・ゲームス”の2018年大会の会場に、日本が誇るサーフタウンの愛知・伊良湖が選出。安室丈や上山キアヌ久里朱ら波乗りジャパンの大活躍に湧いた宮崎・日向でのワールドジュニアに続き、2年連続の日本での国際試合に、2020年の東京五輪への高まりは一層加熱。酷暑で知られる伊良湖の夏が、灼熱の舞台になること必至!
Text: Junji Uchida(参考文献:マット・ワーショウ著『The Encyclopedia of Surfing』 2005年・Mariner Books)
ISAが、サーフィンを含むオリンピック種目の公式投票をIOC(国際オリンピック委員会)が行い、来年の主力コンテンツのうち、ワールドSUP&パドルボード選手権はブラジルで、ワールド・サーフィン・ゲームスは日本で開催されることに決まったとウェブで公開。2016年と2020年の中間地点となる2018年。リオ五輪の余韻と東京五輪へのうねりを受けて、オリンピック種目としてのサーフィンを大きく前進させる引き金になりそうだ。
ISAのフェルナンド・アギーレ会長は連盟のサイトで声明を発表。「我々の2つのメジャーイベントを秀逸な場所でできることに興奮している」。「2020年はサーフィンがオリンピック競技としてデビューする。その勢いを加速させてくれるだろう」とも述べ、「この前哨戦を通じて、日本での国際試合が世界にどう映るのかを知るきっかけになる」と言及している。
NSA(日本サーフィン連盟)の酒井厚志理事長も、「世界中のサーファー、サーフィンファンをはじめ、他の競技アスリート、さまざまな人達に、日本の波、美しさ、文化を見てもらう絶好の機会。世界最高峰のサーファーを歓迎し、日本の波とホスピタリティを体験していただくことを楽しみにしている」とコメント。「2020年TOKYOの2年前に開催されるこの大会が、オリンピック競技でのサーフィンの先駆けとなり、当大会に出場した選手の中にサーフィン界初のオリンピアンが必ず登場すると信じている」とも記した。
〈で、世界サーフィン選手権ってどんな大会だったっけ?〉
なるほど……すごそうなのはわかるんだけど、世界サーフィン世界選手権と言われても、今イチわからないサーファーも少なくないはず。そこで、ISAの歩みを振り返りながら紐解いてみます。
初期の世界サーフィン選手権は、
ワールドチャンピオンを競うコンテストだった
世界サーフィン選手権は、ISAの前身だったISF(それぞれの末尾A=アソシエーション、F=フェデレーション。ニュアンスはどちらも国際サーフィン連盟)が、1964年にオーストラリア・マンリーで開催したワールド・チャンピオンシップがはじまり。世界の頂点を決めるコンテストだったものの、当時はまだショートボード革命(1967年〜)が勃発する前。プロツアーもない時代ゆえ、ロングボードで争うこのコンテストの優勝者が世界最強のチャンピオンということになる。
『Surf Club』が敬愛するサーフジャーナリストのマット・ワーショウが運営するサーフィン百科事典『ENCYCLOPEDIA of SURFING』に、その記念すべき第1回コンテストのクールなビデオアーカイブがあったので御覧ください。なお、マットはサイト運営の継続に苦戦している模様。サブスクリプションまたは寄付のご協力をぜひ。英語ですが、勉強になります。
映像はこちら!
タイムレスなドロップニーで初代の世界チャンピオンとなったミジェット・フェレリー。現代最強の世界王者、ジョンジョン・フローレンスのパフォーマンスと対比すれば、53年でどれだけサーフィンが進化したのか実感できるはず。比較用にWSLが12月1日にリリースした『John John Florence: Amplified』を貼っておくので、よろしければ確認ください。
プロ組織の創生に伴い、世界アマ選手権として再スタート
1990年の千葉イベントにはケリーやロブも参戦
ミジェットが優勝した1964年以降、1972年まではISFが世界サーフィン選手権を運営。その間は、長いサーフィン史のなかでも指折りの変遷期。一例を挙げると……
- 1964年:ISF初代代表にエデュアルド・アリーナが選出
- 1966年:世界初のサーフィン映画『エンドレスサマー』公開
- 1966〜67年:ショートボード革命
- 1969年:リップカール、クイックシルバー創業
- 1970年:オニールが初めてワンピースのフルスーツを販売
- 1971年:第1回パイプマスターズ開催
- 1971年:トム・モーリーがボディボードを発明。
ビラボンがスタートした1973年を足せば、激動の10年だ。
そうした潮流のなかで、プロスポーツとしてのシーズが発芽。1973年〜1975年にかけてプロコンテストの先駆けというべきスミノフ・プロアマが展開され、翌1976年に国際プロサーフィン組織のルーツとなるIPSが発足。黎明期を地固めすると、1983年にASPへバトンタッチ。ASPがプロツアーを成長をさせて確固たるものにした後の2015年、WSLへと移管。現在はプロスポーツサーフィンのさらなるメジャー化に邁進中といったところだ。
一方のISFはプロ組織創生の任をIPSに譲り、国際機関の役割を果たし、世界規模のアマチュア組織づくりを目指しリスタート。1978年、新生ISAとして初めての世界サーフィン選手権を開催し、1980年にはオープンに加えてジュニア部門も創設。世界を目指す金の卵たちにとって避けて通れない、プロデビューへの登竜門になった。ちなみに、初年度1980年の覇者は、まだ15歳だったトム・カレン。80年代のカリスマはジュニアのタイトルに加え、2年後の1982年にもメン部門で優勝。まさにエリートコースを滑走した英雄だ。やはり元世界チャンピオンのダミアン・ハードマンも1984年にジュニア部門で、リサ・アンダーソンも1986年にウィメン部門で優勝。世界チャンピオンはそれだけで素晴らしいけど、登竜門の主席卒業生という経歴があるとエリート感がグッと増す。
さて、そんな晴れやかな舞台が、過去に一度だけ日本にやってきたことがある。時は1990年、場所は千葉。不朽の名作『in Black and White』を同年リリースした若き日の神様ケリー・スレーターや、まだどっぷりコンペだった禅マスターのロブ・マチャドも参戦。ニュースクール世代を象徴する2人はともにメン部門に出場するも、ケリーは5位、ロブは7位と結果振るわず。一方、ホスト国の我が日本チームは福地孝行がロブに並び7位につけるなど健闘。今年5月に行われたフランス・ビアリッツで波乗りジャパンが、過去最高位となる5位をマークしたため塗り替えられてしまったが、1990年は団体総合6位という成績を残し、大いに湧いた。
ISA現代表のアギーレ会長が五輪競技に向けて舵取り
20年以上にわたる運営改革の末、2020 TOKYOで実現
さて、ここで少しISAの運営改変の流れについておさらいしておこう。ISAは1982年の時点でIOC傘下の旧称GAISF、現スポーツアコード国際会議のメンバーに加盟している。これは、サーフィンの五輪種目化を見据えてのものだ思うが、1994年、アギーレ氏がISA会長に初めて就任すると、その動きは一気に加速。それはなぜか? 2000年の五輪会場がサーフィン大国、シドニーになったからだろう。
アギーレ会長は、ISAの運営体制をIOC基準に足並みを揃えていけば、五輪種目選出の実現可能性が高いことを確信。枠組みの改変に着手し始めた。1996年の世界サーフィン選手権では、大会名称をワールド・チャンピオンシップからワールド・サーフィン・ゲームスに変更。さらに、五輪同様プロアスリートの参加を認め、プロサーファーに門道を開いた。結果、すでにプロとして大成していたテイラー・ノックスがメン部門を制覇し、やはりプロ活動をしているベン・ブジョアがジュニア部門で優勝。運営の改変が徐々に奏功し、ISAはIOCから1995年に暫定承認を、1997年には正式承認を獲得。しかし、シドニー五輪ではサーフィンは競技種目に選ばれず、プロサーファーも興味が薄れていき、次第にワールド・サーフィン・ゲームスから戦線離脱していった。
しかし、その後もISAは「サーフィンを通じて、より良い世界をつくる」を理念に、運営改革を継続。2003年にジュニア部門を独立させ、世界ジュニア選手権として始動。ジョーディ・スミス(2003年)やステファニー・ギルモア(2004年)、オーウェン・ライト(2006年)、ジュリアン・ウィルソン(2006年)、タイラー・ライト(2009年)、ガブリエル・メディナ(2010年)、フィリップ・トレド(2011年)等など、現在のトップ・オブ・ザ・トップが金メダルを獲得し続けてきた実績により、未来のトップ・オブ・ザ・トップをミラーリングする舞台になった。今年の宮崎・日向での安室丈(U16優勝)や上山キアヌ久里朱(同部門3位)、あるいは近年の森友二(2016年ポルトガル戦U16-3位)、西優司(同部門4位)、村上舜(2015年カリフォルニア戦U18-4位)らの実績から、自ずと期待値が上昇してしまう。
ところで、IOCが規定するオリンピック憲章の競技採用基準は、夏季オリンピック競技は男子4大陸75カ国以上、女子3大陸25カ国以上。ISAは、そこに向けての改革も進めていった。2006年までは2年ごとだったワールド・サーフィン・ゲームスの開催タームを1年ごとに変え、1チームあたりのメンバー数も当初の15名から、各部門とも男子4人+女子2人の最大6名にまで圧縮。減らした分をより多くの国に充当し、参加国を増やしていった。さらに、ISA率いる競技種目を増やし、それぞれのコンテストを個別に行うことで開催国数が増加。ショートボードからニーボード、ボディボード、ロングボード、さらにはSUP&パドルボードにまで広がり、1994年当時の参加国数は31カ国だったのに対し、今年5月のビアリッツ戦では、ワールド・サーフィン・ゲームスだけだったにもかかわらず47カ国・245名が参加。ISAへの現在の加盟国数は101カ国、5大陸を達成。こうした、20年以上の運営改革の積み重ねが、サーフィンの五輪種目競選出を実現させた。
波乗りジャパンのオンファイア再来に期待
各国スター選手が参戦の可能性も
さて、こちらが今年のビアリッツでのワールド・サーフィン・ゲームス。オープニングセレモニーをご覧いただければ、そのイベント感が伝わるはず。この伊良湖バージョンが来夏、灼熱の下で開催されることになったというわけだ。
波乗りジャパンが過去最高位の5位に入賞を果たしたこの大会。2020年の東京五輪に向けて、各国が少しずつ動いている模様。たとえば、中国チームは元アメリカチームの名指導者、PTことピーター・タウンネンドをコーチに招聘。中国はこの大会で47チーム中39位と、未だメダル争いに参加できずにいるが、仮に今後、中国国家体育総局が本腰を入れ、多額の資金を投じてメダル獲得に乗り出せば、東京は難しくても2028年のLA五輪にはメダル争いに食い込んでくる可能性があるだろう。
また、一部のCTツアラーが参戦してきたことも気になる動きだ。
長いあいだ有力タレントのISAイベントへの参加を認めて来なかったWSLだが、その姿勢が軟化。多くのCTツアラーはスケジュールの調整がつかずスキップしたが、地元ということもあってだろう、フランスチームの座組はジェレミー・フローレスやジョアン・ドゥルー、ヨハナ・デファイ、ポーリン・アドなどのスター揃い。また、ブラジルのイアン・ゴーベイアや南アフリカのビアンカ・ビテンダッグらも出場していた。
組織を超えた動きは日本にもある。今年の3月、千葉・鴨川での強化指定選手 国内強化合宿でNSA、JPSA、WSLジャパンが一枚岩になり、波乗りジャパンの飛躍を加速させていく意向を表明。波乗りジャパンとして結束を強める姿勢を示した。子供の頃から誰もが視聴してきたオリンピックの舞台で表彰台に上り、メダルを咥えながらフラッシュを浴び、国歌を斉唱するために、各国ともさらに力を入れてくること必至。2020年のホスト国での前哨戦ということで、大物がスケジュール調整して参戦することも考えられる。対する波乗りジャパンは、日向でその実力を示したばかり。ビッグネームを次々なぎ倒していく勇姿に期待がかかるばかりだ。
「2018 ISA 世界サーフィン選手権」